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2006年8月 9日 (水)

Dream ―夢―

Cimg8217_512_1 ぼくが、野球を始めたのは小学校3年生の春。今でもそのときのことははっきりと覚えている。父親とお風呂に入っているとき、兄が所属している少年野球チームの監督から電話があり「弟もやってみないか?」と誘われた。そのとき、ぼくはとてもうれしくてすぐに「やります!」と答えた。それから10年、ぼくは野球が大嫌いになっていた。野球をやっていたことを恥じて経歴を隠すことさえあった。なぜなら、ぼくがやってきた野球は、テレビで見ている野球とはまったく違うものだったからだ。当時、ぼくはL.A.ドジャースのエースとして全米にトルネード旋風を巻き起こす“野茂英雄”の姿を食い入るように見つめていた。

ぼくが、野球を本格的に始めたのは小学校3年生のときだが、幼稚園に入る頃にはすでにボールをにぎって父とキャッチボールをしていた。そのため、4年生のときにはレギュラーを獲得し、同級生に負けることはなかった。しかし、チームがあまりにも弱すぎた。1年で公式戦に1勝できるかどうかというレベルで、野球を楽しめる状況ではなかったのだ。打たせて取れば野手がエラーし、出たランナーにけん制球を投げれば後ろにそらす。試合中に、チームメイトを罵倒することもしばしばあった。この時点ですでに、ぼくは野球に嫌気がさしていた。でも、ぼくはやめられない。なぜなら、ぼくは野球の“サラブレッド”だから。ぼくの家族は、祖父と父が甲子園に出場し、ぼくが甲子園に出場すれば親子3代になる。これは、とても名誉ある記録だから、これを達成するのがぼくの宿命だと小さいときから聞かされていた。ぼくも、その記録を達成したかったから、中学では日本一強いチームでやりたいと親に頼んだ。野球の神様を信じて‥。

そして、ぼくが選んだのは「港東シニアリーグ」というチームだった。このチームは、この年まで4年連続全国優勝に輝いた名実ともに日本一のチームだ。オーナーを野村沙知代、総監督はあの野村克也が務め、その他にも多くのプロ野球関係者が指導しにやってくる。練習は神宮室内練習場と多摩川巨人軍グラウンドを使用し、各地から一流の選手が集まってきていた。これで野球が楽しめるとぼくは確かな手応えを感じていた。しかし、またしても野球の神様はぼくにほほ笑まなかった。そこでは、想像をはるかに超える根性野球が繰り広げられていたからだ。ミスをすれば鼓膜が破れるまで殴られ、声が小さければバットが折れるまでケツをたたかれた。パンツ1枚で街中を走らされ、嘔吐するまで飯を食わされることも当たり前のように行われていた。ぼくは、そんな練習に必死で食らいつき、泥だらけの顔で電車に乗り込み床に座って野球道具を磨いた。それでも、ぼくはがんばれた。その先に“甲子園”が見えていたから。そして、ぼくは3年間やり抜いた。このチームを卒業すると名門校への推薦を得られるからだ。しかし、引退試合後のミーティングでぼくは彼女にこう言われた。「もし、推薦が欲しければ体重をあと5キロ増やせ!」と。頭が真っ白になった。なぜなら、ぼくはこれより少し前に体重を1週間で5キロ増やし、自宅謹慎がとけたばかりだったからだ。体重検査では、パンツの下に何か隠していないかと疑われ、彼女を前にして裸で体重計に乗せられる。こんな屈辱を2度も受けてまで彼女に頼るつもりはなかった。そして、気づいたときには荷物をまとめて車に乗り込んでいた。15歳のぼくにできる最初で最後の抵抗だった。こうして、ぼくは推薦を失いチームを去った。甲子園出場を誓って‥。

そして、進路を決めるときが来た。ぼくは、父の母校「前橋工業高校」で野球がしたいと頼んだ。「前工」と呼ばれるこの学校は、この年まで2年連続夏の全国大会ベスト4に輝き、甲子園常連校の名にふさわしい成績を残していた。父も快く承諾してくれ、2人で群馬県までトライアウトを受けに行った。そして、監督から入学許可をもらった。そのため、他の高校への推薦もあったが断ることにした。新しい環境になれば野球が楽しめる。そう期待して入学のときを待っていたぼくに1本の電話が入った。中学卒業を間近に控えた冬のことだった。その内容は「あなたには当校に入るための入学資格がないことが分かったので、今までの話はなかったことにしてくれ。」というものだった。三度野球の神様はぼくに試練を与えた。そして、行き場を失った。もう、甲子園への夢はあきらめてしまおうかと本気で考えた。でも、あきらめられない。あれは家族と誓った“夢”だから。そして、何とか一般入試で「向上高校」に入学した。決して弱いチームではない。しかし、雑用や上下関係、いじめや暴力など野球以外の負担が多すぎた。「甲子園へ行こう!」なんて言おうものなら鼻で笑われる。いつしか、ぼくは夢を隠すようになっていた。そして、最後の夏、ぼくは敗戦投手となり2回戦で敗れた。努力が足りなかったのか運が悪かったのかは分からない。でも、きっと野球の神様はぼくのことが嫌いなんだろう‥。そう思ってぼくは野球を辞めることにした。小学校の文集で書いた“夢”のことなどすっかり忘れて‥。

そして、ぼくは勉強した。今まで勉強などしたこともなかったが、野球にくらべれば遥かに楽だった。失うものは何もないし、プレッシャーもない。そして、2年半毎日10時間机に向かって勉強し大学に入学した。しかし、新しくできる友達は今まで付き合ったことのない人達ばかりだった。部活もやらずにバイトをし、塾に通いながら遊んでいたような奴らだ。そんな奴らとぼくがうまくやっていけるわけがない。いつしか、自然と話を合わせ行動を共にするようになっていた。しかし、授業を聞きながら繰り返し浮かんでくることは「俺は、こんなことをするために野球をやってきたのか?子供の頃に描いた夢はなんなんだ?」ということだった。そして、大学2年の冬、ぼくは2週間で出発の準備をしアメリカへ渡っていた。独立リーグのトライアウトを受けるために。最初は戸惑った。どんな顔をして野球をやればいいのか、どんな態度で臨めばいいのかと。しかし、そんな不安はすぐに吹き飛んだ。みんな本当に楽しそうだったからだ。のびのびプレーしている姿や仲間と気軽にコミュニケーションをとる姿が次々と目に飛び込んでくる。これが、ぼくの求めていた“野球”だとすぐに直感した。それから1年半、ぼくはカナダで野球をやっている。そして、心から野球を楽しんでいる。何かに脅えることもなければ、何かに耐えることもない。ここでは、「野球を楽しむこと。野球を愛すること。」が最も大切なことなのだ。

  今回、ぼくはカナダに来ていろいろ考えさせられることがたくさんあった。過去の自分や現在の自分、そして将来の自分について。決して、過去を後悔しているわけではない。今では、あれがあったから今の自分があるのだと思えるようになった。このまま大学を卒業すれば安定した職業と収入を得られることは間違いない。でも、それを途中で捨ててまでぼくは週休100ドルのセミプロで野球をしている。「そんな野球好きがどこにいる?」と言われてもおかしくないだろう。間違いなく、ぼくは野球が好きなのだ。小学校の文集に、将来の夢は“メジャーリーガー”と書いたのを、今ではつい最近のように思い出す。きっとこのまま日本にいてごく普通の暮らしをしていたら、野球の楽しさや将来の夢に気づくことは一生なかっただろう。やっぱり、“夢”をあきらめるなんてそう簡単にできるもんじゃないんだ

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コメント

ここに書いた気持ちは今後生きていく中で絶対に失ってわ駄目だよ。夢を語ることを、見ることを辞めた瞬間に人は人でなくなるのかもしれない。これから陽がしていく挑戦を俺の全ての力と経験を使って助けてやる。だからいつも謙虚に、努力を重ね可能性を自分の中から引っ張りだすこと。何かを考えたり、行動を起こせば、1%は可能性が生まれてる証拠。だから100%不可能はあり得ない。『できる、できないじゃなく、やるか、やらないか』この差はデカイんだ。俺が海外の9年間の挑戦で得た教訓だよ。陽には俺よりも才能がある。だから後は自分次第。野球と向き合って今は1分1秒も無駄にするなよ。

投稿: Yoshi | 2006年8月10日 (木) 00時26分

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