最近、ぼくがアメリカに渡り、アメリカの野球に挑戦する経緯を振り返る機会がありました。
ここ数年は、春と夏にアメリカへ渡り、秋と冬に日本で練習をするというパターンが一般化し精神的に慣れてしまったので、もう一度初心に帰って今に至った経緯を振り返ってみたいと思います。
そもそも、ぼくが初めてボールを握ったのは3歳の頃だった。祖父と父が甲子園球児でおじさんも高校球児、兄ももちろん野球をやっていた。
だから、ぼくが野球を始めたのは極々自然な流れだった。まわりのみんなと違って、ぼくには野球を始めた特別なきっかけはない。
特別野球が好きだとか、憧れの選手がいただとかそんなものはなく、小学校でも中学でも、高校でもぼくは野球をやることになっていた。
好奇心旺盛でやんちゃな時期に、自分の生きる道を選択できないのは意外と苦しいものだ。サッカーやバスケ、塾通いにバイト、まわりのみんなと同じことがしたいと何度も心が揺れた。
そんなストレスも“野球”が解消してくれれば少しは報われるものだが、ぼくの野球人生は決して楽しいものではなかった。
小学校のときは、地元の超弱小チームに所属した。公式戦はほとんどが一回戦敗退で、正直勝った記憶はひとつもない。
ぼくは、他のチームメイトよりも早くボールを握ったというプライドがあったから、それだけ理想も高かった。だから、中学校では、日本一強いチームでやると心に誓った。
中学校のときは、全国大会4連覇中の最強チームに所属した。総監督はあの野村克也、オーナーには野村沙知代がいた。その他にもスタッフのほとんどがプロ野球経験者という布陣で、野球をやるには最高の環境だった。
もちろん、チーム内の競争も激しく、生まれつきの才能や恵まれた体格をもったスーパーエリートたちが各地から集まっていた。
そんな中、体の線が極端に細く身長も平均的、そして何より家から2時間以上離れたチームだったということもあり、何かとコンプレックスを抱えながらずいぶん家族にも迷惑をかけた。
また、根性野球の餌食にもなった。鼓膜が破れるまで顔を殴られ、バットが折れるまでケツをたたかれた。パンツ一丁で街中を走らされ、嘔吐するまで飯を食わされることも平然と行われていた。
当時、ぼくはL.A.ドジャースで活躍する野茂英雄投手の熱狂的ファンだったから、テレビで見る野球発祥の地の風景と現実の風景にギャップを感じ、このころから日本の野球に対して疑いを持つようになった。
でも、このチームで得たものはたくさんあった。エリート集団にいたからこそ気づいた自分の個性が何よりの収穫だ。線が細いからできたしなやかな動き、指が長いことで適した変化球の握り、今のサイドアームに変えたのもこの時期だった。
それから忍耐力。これも今のぼくを支える最高の武器だ。長い移動時間を利用して野球道具を磨きノートをつけながら配球を学んだ。ひとりウェイトアップのテストを何度も課せられ、その都度裸で体重計に乗り謹慎生活を解いた。
甲子園という最高の夢に向かってひたすら突っ走っていたから、どんな理不尽な言葉も暴力も最後まで耐え抜いた。
そして、引退のとき、最後まで残った選手に贈られる名門校へのスポーツ推薦をあっけなく拒否され、ひとりチームを去ることになった。理由は、体重が軽いからだった‥。
「甲子園に出場して絶対に彼らを見返してやる。親子三代甲子園出場を果たしてスポットライトを浴びるんだ。」
こうしてぼくは自分で高校を探すことになった。行くあてなんてどこにもなかったが、父の出身校でその年まで2年連続甲子園ベスト4の名門校へテストを受けに行った。
そして、入学許可をもらった。地元の学校からも誘いの話がきていたが、それを断って地方へ野球留学する決意を固めた。
しかし、入学を心待ちにしていた中学卒業まぎわ、自宅に一本の電話が入り突然入学許可を取り消された。理由は、手続き上のトラブルだった‥。
小さい頃から憧れていた甲子園の舞台を前にして、完全に野球をする場所を失った。もう甲子園への夢はあきらめてしまおうかと本気で考えたが、やっぱりあきらめられなかった。
そして、地元の私立高校へ一般入試で合格した。決して弱いチームではなかったが、理不尽な上下関係や雑用、いじめや暴力がはびこり本気で甲子園を目指そうものなら鼻で笑われるような環境だった。
入学取り消しのショックから大人への不信感も頂点に達し、何度も教師にたて突き学校も休みがちになった。そして、部活からも離れて行き、3年になると「お前にエース番号は付けさせない。」と早々先刻され、背番号10で臨んだ引退試合では敗戦投手となり甲子園への夢はあっけなく幕を閉じた。
これが普通の人生なのか、それとも不幸な人生なのか、当時のぼくでは判断できずすぐに野球をやめた。
野球を語ることもなく、野球人生を振り返ることもせず、とにかく野球から逃げた。そして、2年間浪人して大学に入学した。
しかし、黙って授業に耳を傾け、休みに仲間と他愛もない話をして笑みを浮かべる自分、バイトで稼いだ小さな小遣いで好きなものを買って満足する自分に嫌気がさした。
それから数日間、「お前がやりたいことはこんなことなのか?お前の夢は何なんだ?」ということが頭の中を何度も駆け巡った。
そして、直感的にひらめいた。「野球だ、アメリカだ、トライアウトだ」と。確かに、その年の冬に家族旅行でアメリカを訪れたことや母にプロテストを受けてみたらと冗談半分に言われたことが影響したのかもしれないが、本当にあのときは直感的にひらめいただけだった。
その後の人生を大きく左右する歴史的瞬間だとはつゆ知らず、2週間後には海を渡った。4年間、一切マウンドに立つこともボールを握ることもしなかった自分が、もう一度野球選手として踏み出した一歩だった。
そして、そこで目にした光景に度肝を抜かれた。楽しそうに野球をしている姿、のびのびとフィールドを駆け回る姿、ガムを噛んでサングラスをしながらプレーする選手たち、監督と握手を交わし仲良く話す選手の輪、それを楽しみ暖かい声援で迎えてくれる観客、どれもがあのテレビで見た光景だった。そして、これがぼくの求めていた野球だとすぐに直感した。
それからのぼくは、アメリカでしか野球をやっていない。なぜアメリカを選んだのか正直今でもわからない。
他の選手のように、何か特別なきっかけがあったわけでもなく大きな決意で海を渡ったわけでもない。もちろん、何かを求めて祖国を離れたわけでもない。とにかく、漠然としていた。
だから、本当に直感的に海を渡ったというのがぼくの経緯だ。この答えは、きっと現役を引退したら自分が教えてくれるものだと思っている。
今年で3年目のシーズンを終え、最近何かと利害関係が見えるようになってきた。そのことで、少しリズムが悪くなっている気もする。
今日、あの当時の記憶を思い出して、もう一度自らの感性を研ぎ澄ませてみようと思った。「自分の直感は間違っていない。」そう信じてがんばるしかない。
*写真ー当時この長い下り坂の先に練習場が見えると足がすくみ、気合を入れなおし一気に駆け下りた思い出の道
最近のコメント