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2007年12月31日 (月)

Once more again

Cimg4680 まずは、今年一年、このブログを通して応援してくださったみなさんに深く感謝したいと思います。

今年は、最低目標であったプロのマウンドに立ち、結果こそともなわなかったもののようやくメジャーのマウンドを目指すスタートラインに立つことができました。

みなさんの応援に何度も励まされ、また来年もどんなに辛いことがあっても絶対にやってやるぞという気持ちで新年を迎えることができそうです。本当にありがとうございました。

ただ、2007年の今年をしめくくる最後の日記が、めでたしめでたしでは行かないことに深く反省しています。

人間というのは精密機械のようには行かないもので、ひとつの山を越えればまた次の山、ひとつ成長すればまた次の成長と常に新たな課題を突きつけられながら日々生活して行かなければなりません。

『心を以って心を伝う』という言葉は日本古来からの考え方であるが、ときにはしつこいぐらいのコミュニケーションをもって、ときには大げさなぐらいの表現方法をもって相手に伝えなければ自分の気持ちを正確に伝えることはできません。

現在のぼくはといえば、不安ばかりが頭をよぎる不安定な状態にいます。来シーズンのこと、肩のけがのこと、大学のこと、そしてプレゼンやマネージメントのこと。

その不安を隠すかのように全力で突っ走っていました。後を振り向くことはせず、足元を確認することもなく、とにかく前だけを向いて突っ走っていました。

そのことで、ひとを傷付け、大事なひとを泣かせてしまいました。

相手を泣かせるまで追い詰め、相手の涙を見なければ何も感じなくなっていた自分に、大きな憤りと不甲斐なさを感じています。

自分がどんなに感謝の気持ちを表現してもそれは形だけのものであって、その気持ちを100パーセント伝えるにはやはりメジャーに行くことしかないんだということに大きなプレッシャーも感じています。

今年一年をしめくくる前に、人として、野球選手として、このような大事なことに気づけて良かったと思います。

ぼくがメジャーに挑戦する中で、楽しいこと、嬉しいことはたくさんあります。でも、それ以上に辛いこと、苦しいこと、泣きたくなるようなことばかりです。

でも、メジャーに上がるまでは絶対に涙を見せないと心に誓っています。もう一度足元を確認して、また来年再出発してがんばろうと思います。

みなさんにとっても最高の2008年になりますように!

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2007年12月29日 (土)

Bring on the Elites

06  ここ数日の自分の言動を見ていて、先日プレゼンをしたことによる新たな副産物が自分の中に生まれていることに気づいた。

ぼくは、正直プレゼンをすることによる効果といえば、スポンサー契約だったりサポートだったり、または貴重な経験やプレゼンのノウハウだったりという視覚的なものしか想像していなかった。

しかし、ここ数日の自分を見ていて、明らかに自分の中に何か沸き立つものを感じるようになった。

それは、野球への“情熱”である。野球への情熱があまりにも大きくなりすぎて、自分ではいつもどおり振舞っているはずなのに、今まで上手くやってきたまわりのリズムと上手くかみ合わなくなっている。

なぜなら、プレゼンをしたことで自分への責任をより強く、より明確に意識するようになったからだ。

実際、ああやって経営者の前に立って自分の野球への思いを語り、3年以内にメジャーへ昇格することを断言して話を進めるには、絶対に迷いがあっては行けない。

きっと、冷静に物事を考えて客観的に判断を下せば、何の根拠も経験も、才能も体格もない人間が経営者に向かって「絶対にメジャーへ行きますので黙って見ていてください!」なんて口がすべっても言えない。正直失笑をかって、オフィスから追い出されるだけろう。

言い方は悪いが、「野球選手“落合陽”に金を出させる」には、自分自身に迷い、疑い、不安があっては絶対にいけない。どれだけ自信があるのか、どれだけ野球が好きなのかを制限時間内に伝えないといけない。

そういう意味で、最近は気心知れた仲間内で夢を語り合うことに慣れてしまい、自分への責任の重さ、野球への情熱の大きさが小さくまとまりつつあったのかもしれない。

だから、自然に自分の心がメジャーのマウンドへの距離を測り、夢への実現を具体化し、3年後のメジャー昇格を逆算し始め、いよいよ本気でやれよという神のお告げでもあるんだろう。

「自分に才能があれば、自分に実力があれば‥」と何度悔やんでもし切れないが、ない物はしょうがない。あとは違った方法でそれらを補うしかない。それが、今回のプレゼンだった。

まだまだ、新たな挑戦は始まったばかりだけど、こんなところで行き詰ってもいられない。ゆっくりあせらず、でも着実にスピードアップしながら、ぼくはみんなと違うルートであの頂を目指す!

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2007年12月25日 (火)

New Generation

Dscn8808 今日は、クリスマスで賑わう東京新宿で、念願の「スポンサー契約獲得のためのプレゼンテーション」をしてきました。

去年から計画していたこのようなプレゼンも、その方法やテーマに具体性が欠け、経験や知識もなかったことでうやむやになっており、今回は縁あって『株式会社クリエイティブスポーツ』さんの協力を得て、代表取締役“丸茂大介”さんと取締役の“新留順”さんにお話を聞いていただくことができました。

株式会社クリエイティブスポーツさんは、「あなたと一緒に、あなただけのフィットネス・スタイルをプランニング」というコンセプトのもと、日本で初めてフィットネス専門のコンシェルジュサービスを提供した派遣・イベント運営会社です。

ぼくがプレゼンをする意図は大きく分けて2つあります。まずは、野球選手としての活動範囲を広げることです。スポンサー契約獲得によってさまざまな支援が得られれば、トライアウトキャンプやウィンターリーグ参加、トレーニング施設の充実などシーズン・オフシーズンに関わらず多くのチャンスを生み出すことができます。

次に、次世代の子供たちの新たなロールモデルを提案することです。今までの日本人独立リーガーと同じことをすれば、オフシーズンに日本へ帰ってきてトレーニングを続け、バイトをしながら生計を立てるのが精一杯です。

しかし、そのような生活では本気で野球に取り組むことができず、年齢や家庭環境などの変化によって志半ばで引退をよぎなくされるのが現状です。

そこで、野球だけでも生計を立てられるのは“大リーガー”だけではないということをスポンサー獲得で証明できれば、次世代の子供たちに多くのチャンスを与えることができます。

このような目的のもとで、今回人生初の対企業プレゼンテーションを敢行したわけですが、正直やって良かったなというのが率直な感想です。正直、ぼくにとっては会社を訪れること事態初めての経験で、最初はどうなるんだろうという不安はもちろんありました。

しかし、新たな発見があり、明確になった部分もあり、今後の課題も見つかり、新たなアイディアも提供して頂き、ただただ感謝感謝のハッピークリスマスでした。ホッとしています‥。

ところが、その帰り道で代理人と待ち合わせ今日の反省会をしたことがきっかけとなり、忙しかった今日の締めくくりが彼とのトークバトルになってしまいました。

我ながら、経験豊富な彼にたて突き、自分の考えや意見が主張できるようになったことに感心し、というかただ頑固な意地っ張り野郎なのかもしれませんが、でもぼくには選手という立場で絶対に譲れない部分もあるし、実際にマウンドに立つのは他の誰でもなく自分自身ですから、そのぐらい強い意志があっても良いんじゃないかなと今は思っています。

まわりで食事をしていたお客様には随分大きな声でご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでしたが、相変わらずうちの代理人は○○いんですよ!(笑)

でも、これは喧嘩じゃないんです。傍から見れば喧嘩しているように見えるかもしれませんが、これは“話し合い”なんです!

ぼくたちふたりは、今にも沈没しそうな小さな船に“夢”だけを乗せて必死で漕いでいますので、これでもかっていうぐらい話し合わないと同じリズムで息を合わせてまっすぐ船を漕ぎ進めて行くことができないんです。

だから、何とも後味の悪い締めくくりとなりましたが、これからもスポンサー獲得を目指して新たな一歩をどんどん踏み出して行きたいと思います。

今日ぼくのために時間を割いてくださったみなさん、最高のクリスマスをありがとうございました。

『株式会社クリエイティブスポーツ』

オフィシャルサイト:http://creative-sports.dreamblog.jp/

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2007年12月16日 (日)

Play my Hunch

Cimg3744 最近、ぼくがアメリカに渡り、アメリカの野球に挑戦する経緯を振り返る機会がありました。

ここ数年は、春と夏にアメリカへ渡り、秋と冬に日本で練習をするというパターンが一般化し精神的に慣れてしまったので、もう一度初心に帰って今に至った経緯を振り返ってみたいと思います。

 そもそも、ぼくが初めてボールを握ったのは3歳の頃だった。祖父と父が甲子園球児でおじさんも高校球児、兄ももちろん野球をやっていた。

だから、ぼくが野球を始めたのは極々自然な流れだった。まわりのみんなと違って、ぼくには野球を始めた特別なきっかけはない。

特別野球が好きだとか、憧れの選手がいただとかそんなものはなく、小学校でも中学でも、高校でもぼくは野球をやることになっていた。

好奇心旺盛でやんちゃな時期に、自分の生きる道を選択できないのは意外と苦しいものだ。サッカーやバスケ、塾通いにバイト、まわりのみんなと同じことがしたいと何度も心が揺れた。

そんなストレスも“野球”が解消してくれれば少しは報われるものだが、ぼくの野球人生は決して楽しいものではなかった。

小学校のときは、地元の超弱小チームに所属した。公式戦はほとんどが一回戦敗退で、正直勝った記憶はひとつもない。

ぼくは、他のチームメイトよりも早くボールを握ったというプライドがあったから、それだけ理想も高かった。だから、中学校では、日本一強いチームでやると心に誓った。

中学校のときは、全国大会4連覇中の最強チームに所属した。総監督はあの野村克也、オーナーには野村沙知代がいた。その他にもスタッフのほとんどがプロ野球経験者という布陣で、野球をやるには最高の環境だった。

もちろん、チーム内の競争も激しく、生まれつきの才能や恵まれた体格をもったスーパーエリートたちが各地から集まっていた。

そんな中、体の線が極端に細く身長も平均的、そして何より家から2時間以上離れたチームだったということもあり、何かとコンプレックスを抱えながらずいぶん家族にも迷惑をかけた。

また、根性野球の餌食にもなった。鼓膜が破れるまで顔を殴られ、バットが折れるまでケツをたたかれた。パンツ一丁で街中を走らされ、嘔吐するまで飯を食わされることも平然と行われていた。

当時、ぼくはL.A.ドジャースで活躍する野茂英雄投手の熱狂的ファンだったから、テレビで見る野球発祥の地の風景と現実の風景にギャップを感じ、このころから日本の野球に対して疑いを持つようになった。

でも、このチームで得たものはたくさんあった。エリート集団にいたからこそ気づいた自分の個性が何よりの収穫だ。線が細いからできたしなやかな動き、指が長いことで適した変化球の握り、今のサイドアームに変えたのもこの時期だった。

それから忍耐力。これも今のぼくを支える最高の武器だ。長い移動時間を利用して野球道具を磨きノートをつけながら配球を学んだ。ひとりウェイトアップのテストを何度も課せられ、その都度裸で体重計に乗り謹慎生活を解いた。

甲子園という最高の夢に向かってひたすら突っ走っていたから、どんな理不尽な言葉も暴力も最後まで耐え抜いた。

そして、引退のとき、最後まで残った選手に贈られる名門校へのスポーツ推薦をあっけなく拒否され、ひとりチームを去ることになった。理由は、体重が軽いからだった‥。

「甲子園に出場して絶対に彼らを見返してやる。親子三代甲子園出場を果たしてスポットライトを浴びるんだ。」

こうしてぼくは自分で高校を探すことになった。行くあてなんてどこにもなかったが、父の出身校でその年まで2年連続甲子園ベスト4の名門校へテストを受けに行った。

そして、入学許可をもらった。地元の学校からも誘いの話がきていたが、それを断って地方へ野球留学する決意を固めた。

しかし、入学を心待ちにしていた中学卒業まぎわ、自宅に一本の電話が入り突然入学許可を取り消された。理由は、手続き上のトラブルだった‥。

小さい頃から憧れていた甲子園の舞台を前にして、完全に野球をする場所を失った。もう甲子園への夢はあきらめてしまおうかと本気で考えたが、やっぱりあきらめられなかった。

そして、地元の私立高校へ一般入試で合格した。決して弱いチームではなかったが、理不尽な上下関係や雑用、いじめや暴力がはびこり本気で甲子園を目指そうものなら鼻で笑われるような環境だった。

入学取り消しのショックから大人への不信感も頂点に達し、何度も教師にたて突き学校も休みがちになった。そして、部活からも離れて行き、3年になると「お前にエース番号は付けさせない。」と早々先刻され、背番号10で臨んだ引退試合では敗戦投手となり甲子園への夢はあっけなく幕を閉じた。

これが普通の人生なのか、それとも不幸な人生なのか、当時のぼくでは判断できずすぐに野球をやめた。

野球を語ることもなく、野球人生を振り返ることもせず、とにかく野球から逃げた。そして、2年間浪人して大学に入学した。

しかし、黙って授業に耳を傾け、休みに仲間と他愛もない話をして笑みを浮かべる自分、バイトで稼いだ小さな小遣いで好きなものを買って満足する自分に嫌気がさした。

それから数日間、「お前がやりたいことはこんなことなのか?お前の夢は何なんだ?」ということが頭の中を何度も駆け巡った。

そして、直感的にひらめいた。「野球だ、アメリカだ、トライアウトだ」と。確かに、その年の冬に家族旅行でアメリカを訪れたことや母にプロテストを受けてみたらと冗談半分に言われたことが影響したのかもしれないが、本当にあのときは直感的にひらめいただけだった。

その後の人生を大きく左右する歴史的瞬間だとはつゆ知らず、2週間後には海を渡った。4年間、一切マウンドに立つこともボールを握ることもしなかった自分が、もう一度野球選手として踏み出した一歩だった。

そして、そこで目にした光景に度肝を抜かれた。楽しそうに野球をしている姿、のびのびとフィールドを駆け回る姿、ガムを噛んでサングラスをしながらプレーする選手たち、監督と握手を交わし仲良く話す選手の輪、それを楽しみ暖かい声援で迎えてくれる観客、どれもがあのテレビで見た光景だった。そして、これがぼくの求めていた野球だとすぐに直感した。

それからのぼくは、アメリカでしか野球をやっていない。なぜアメリカを選んだのか正直今でもわからない。

他の選手のように、何か特別なきっかけがあったわけでもなく大きな決意で海を渡ったわけでもない。もちろん、何かを求めて祖国を離れたわけでもない。とにかく、漠然としていた。

だから、本当に直感的に海を渡ったというのがぼくの経緯だ。この答えは、きっと現役を引退したら自分が教えてくれるものだと思っている。

今年で3年目のシーズンを終え、最近何かと利害関係が見えるようになってきた。そのことで、少しリズムが悪くなっている気もする。

今日、あの当時の記憶を思い出して、もう一度自らの感性を研ぎ澄ませてみようと思った。「自分の直感は間違っていない。」そう信じてがんばるしかない。

*写真ー当時この長い下り坂の先に練習場が見えると足がすくみ、気合を入れなおし一気に駆け下りた思い出の道

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2007年12月10日 (月)

Seven Stars

Dscn8806

ぼくたちB.M.I.は、これまでに2度野球教室を開催してきました。今も昔もこれからも、ぼくの夢は子供たちとずっと一緒に野球をしていたいということです。

そして、来年の1月、3度目の開催を目指して今日そのメンバーたちと打ち合わせをしてきました。

ぼくたちが目指す野球教室は、今までにないかたちの野球教室を実現することです。例えば、海外経験豊富な現役選手の参加、少人数制、チューター制、デモンストレーションなどなど、新しいアイディアを出し合ってさらに進化していきます。

そんな中で、このブログ初登場となる力強いメンバーが新たに加わってくれたので紹介します。

まずは、写真の一番左側「青木選手」です。彼は、ぼくが2005年に初めてアメリカのトライアウトに挑戦した際知り合ったぼくの原点とも言える存在です。

アメリカ野球のアの字も知らなかったぼくが、英語もしゃべれずにプロのトライアウトに挑戦することは正直無謀な挑戦でした。

1次テストの結果が張り出され、自分の番号がなく帰り支度を始めようとしたぼくに「その番号は不合格者の番号だよ!」と教えてくれたのが青木さんでした。

そして、ドラフトにかからず車に乗り込もうとした際に“侍・ベアーズ”の話をスカウトから聞いて通訳してくれたのも青木さんでした。

その他にも、初めてのステーキ、初めてのモーテル、初めてのスーパーマーケット、すべて彼に連れて行ってもらいました。

彼と会わなければ、1次テストで荷物をまとめ「良い思い出になったなぁ。」と格好付けながら帰国していたことでしょう‥。

もちろん、その後侍・ベアーズで運命的な出会いとなる今の代理人も、今のぼくを支えてくれるたくさんの仲間とも出会わずに、極平凡な暮らしへと戻っていたでしょう‥。感謝しています。

次に、そのとなりが「田久保選手」です。今年、四国のアイランドリーグでプレーした日本のプロ野球選手です。

彼は、今の代理人の2人目のクライアントで、何かと比較されたり一緒に練習したりと、ぼくの良きライバルでもあります。

今も各地のトライアウトを回って更なるレベルアップをはかり挑戦を続けているので、ぼくとは違い体キレキレのたくましい若造です。期待してください!

そして、ど真ん中の怪しいおじさんの右隣りにいるのが「池永選手」です。彼は、今年カリフォルニアの独立リーグで活躍した内野のスペシャリストです。

オラオラ系上司や年齢で決まる縦社会を心の底から憎んでいた当時のぼくにとって、侍・ベアーズはまさに4年振りとなる伝統的な日本の野球チームでした。

そんなぼくが上手くチームに溶け込めるわけもなく、上司にたて突き、仲間も作らず、ぼくに話かける選手はひとりもいませんでした。まさに、空気読めない状態でひとり浮きに浮いていたくそガキでした。

そんな中、唯一声をかけてくれたのが池永さんです。アリゾナ最後の日に、一緒にデイリークイーンにアイスクリームを食べに行ったのを今でもはっきりと覚えています。

それが、アメリカで食べた初めてのアイスクリームでした。甘すぎて食べ切れませんでした‥。

その他にも、我らがLG(リトルジャイアント)ことマッサージセラピストの三沢さん、野球教室のパンフレットや当日のタイムキーパーなど全体を支えるデザイナーの田村さん、そしてリーダーのヨシ、みんな情熱溢れる熱い人間ばかり総勢7人が集まりました。

すべては日本球界のために、そして将来を担う子供たちのために、みんなで力を合わせてすばらしい野球教室にします!ご期待ください。

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2007年12月 3日 (月)

Hero of The Quebec

Dscn8803 今日は、ぼくの友達で今シーズンカナダのマイナーリーグ“Quebec Capitales”でプレーした内田享良くんと食事をしてきました。

今年の3月にフロリダで行われたトライアウトで知り合い、帰国後も連絡を取りながら出発直前まで一緒に練習していたお互いメジャーを目指す良きライバルでもあります。

今シーズン、彼はケベック・キャピタルズ不動のショートストップとしてリードオフマンを任され、78試合に出場しました。

ルーキーイヤーとして挑んだ今シーズンは言葉の通じない土地で苦労し、たくさんのミスや困難にぶち当たったそうですが、同じ経験をした良き理解者である監督ややさしいチームメイトに支えられ1シーズン無事プレーすることができたそうです。

ちなみに、カナダのケベックという町は北米大陸の北東部に位置し、ニューヨークよりもはるか北にあるとっても寒い地域です。

また、トロントやバンクーバーなどの大都市と違い公用語は主にフランス語が使用される地域でもあり、ケベック出身の監督はそういう意味でアメリカで野球をやるのに苦労した経験があるそうです。

ルーキーとしての試練や外国人としての苦労を充分理解している監督の下、失敗や結果が出なくても最後まで信頼してのびのびプレーさせてもらったという言葉を聞いて、あらためてそういう人との出会い、そういうチームを引き付ける運の強さの重要性を感じました。

彼が、数百チームあるマイナー球団の中で自分にとってベストのチームでプレーできたと嬉しそうに答えていたのが印象的です。

今日は、このブログを見てくださるみなさんへ内田くんからメッセージを預かってきました。アメリカ野球に挑戦して感じたこと、プロ1年目で経験したことなどから得た教訓を話してもらいました。

「まずは、プロ野球の厳しさを身にしみて感じました。最初のキャンプで出会ったメンバーの半分以上がシーズン途中で解雇されました。

そんな厳しい現実の中で一番大切なものは“適応力”です。毎日行われるシーズンの中でミスをしたりスランプに陥ったりすることはしょっちゅうあります。

そんなときに何をすべきか、自分にとって必要なものは何か、それを見出し実行する。シーズンを通してコンスタントに結果を出すにはこれが一番重要だと感じました。」

そんな内田くんのプレーを見たい方は石川へ!彼は、来シーズン北信越BCリーグの“石川ミリオンスターズ”でプレーすることが決定しています。

このチームは、今年開幕したBCリーグの初代チャンピオンに輝いたチームで、西武や阪神などでプレーした金森栄治さんが監督を務めています。

来週には、2度目の手術で肘を治療する予定だそうでまだまだ万全の調子ではないそうですが、内田くんの更なる飛躍と来年のドラフト入団を期待して検討を祈りましょう!

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