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2009年11月21日 (土)

No Foundation

Img_0575_400 リハビリ生活は、もうまもなく8ヵ月目を迎える。

ボールが投げれなくなってはじめて学んだことはもう山ほどあるけど、最近またひとつ新たなことに気づいた。

それは、「幹」と「枝葉」の関係について。

これは、ぼくが以前からよく言われていたことで、五体満足であるときはなかなか気づけなかったこと。

要するに、心も体も“格好つけ”だったということである。

今のリハビリ生活を客観的に見てみると、“地味”すぎてたまらない。

腕を上げたり下げたり、万歳したり大の字になって寝転がったり、おそらく赤ちゃんでもできる簡単なことを一日何時間も掛けて練習している。

そして、そんな簡単なことが、なかなか思うようにできない。

だからこそ、今までやってきたことのすべてが“チャラ”かったと思える。

もちろん、決してそのすべてが間違っていたとは思わない。

しかし、今となっては、他にやるべきことが山ほどあったと気づく。

樹齢1000年以上の屋久杉は、普通の杉の木の幹ほどもある大きな枝をつけるという。

つまり、太く丈夫な幹があってこその太く長い枝葉であり、細く未熟な幹に太く長い枝葉をつけたとしても、その重さに耐えきれず落ちてしまう。

最悪の場合、幹もろとも崩れ落ちる可能性だってある。

そう思えたときに、今の自分には太く長い枝葉をつけるだけの幹があるか、イコール基礎や土台がしっかりと100%備わっているかと自問自答してみた。

答えは、もちろん“NO”。

今の練習は、今のぼくにとってもっとも必要なことであり、この練習なくして復活はないと理解した。

そして、今後何をすべきなのかがはっきりと見えてきた。

そういえば、三沢さんの与えるメニューは、いつもシンプルで飾らない。

子どもでも大人でも誰にだってできることで、なのに人間の盲点を突いたかのように辛く厳しい。

樗木さんのトレーニングは、まず何よりも先に姿勢から入り、歩くこと走ることの習得を優先する。

さまざまなトレーニング機器を前にして、やることは単純で明快。一瞬、人間の進化論を説かれているような錯覚に陥る。

どちらにしても、共通することは「基礎あっての応用」、「幹あっての枝葉」である。

五体満足であったときのぼくは、自分の行動に責任と自信を持っていた。

だから、やることすべてに「それは枝葉だ!」とケチをつけられると、「そんな難しいことはやってない!」と叫んでいた。

しかし、それは間違っていた。

今だったら、こう考える。

まずは、正しい姿勢をとって歩きはじめよう。

正しく歩けたら走ってみる。

正しく走れたら短距離を走り、長距離を走る。

どちらの距離でも正しく走れたら・・・。

すべての運動は、歩く・走るから。

このひとつひとつを100%クリアすれば、間違いなく立派な幹ができる。

そうしたら、シャトルランにしてもベースランにしても、投げるのも打つのも、それはそれは長く丈夫な枝とともにその先には美しい花を咲かせるだろうとぼくは信じている。

「正しい成長を遂げれば、背は空にも届く」

『行こうぜ!地味に、泥臭く。最後に笑うのは、オレだ!』

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