Graduation
「あのときのチームが一番だった。そう思えるような野球人生にしてください」
ぼくが去年までお世話になったシニアリーグの卒団生に、この度送った言葉だ。
ぼくも中学のときは、東京のシニアリーグチーム“港東ムース”に入団し、卒団した。
オーナーは野村沙千代、名誉監督は野村克也氏が務め、元プロ野球選手でスタッフは構成されていた。
当時はまだまだ根性野球のまっただ中で、暴力や体罰、水や食料の制限などなど軍隊顔負けの訓練が日常茶飯事に行われていた。
修学旅行も運動会もなく、チャイムと同時に学校を飛び出し急いで電車に飛び乗った。
ぼくの中学校生活はチームとともにあり、チームを中心にすべての生活が動いていた。
ぼくは、当時、心の底から野球に嫌気がさし、全国制覇ではなく名門校への進学でもなく、一刻も早く卒団することが最大の目標になっていた。
しかし、その歴史は今はもうない。
チームは、関係者の不祥事によってメディアに大きく取り上げられ、裁判、そして除名というかたちで連盟から姿を消した。
ぼくはと言えば、卒団したことで安堵し、あとはその当時の忌々しい記憶を忘れようと務めるだけだった。
その後、ぼくは、神奈川県の私立向上高校へ入学し、一般入学ながら並みいる特待生をしのいで背番号「1」を獲得した。
その後、一度は野球から身を引いたものの、“夢”をあきらめきれずに渡った異国の地で、サブマリン投手としていくつものトライアウトに合格した。
当時の状況を知る者は、今でもよくやったと健闘を称えてくれ、こんなぼくでも一目おかれる存在になれた。
ぼくの技術、体力、精神力、そのすべてが中学時代を基礎としている。
あのときの練習や指導のお陰で、ぼくは野球人生を堂々と歩めている。
それに気づいたとき、あのチームのお陰で今の自分があるのだと心から思えた。
あれだけ苦しく、あれだけ辛い思いをしたのに、なぜか異様にあのチームが好きで、卒団したことに誇りを持っている自分がいた。
野球をやめ“夢”を失ったとき、気晴らしに向かったのは田園調布のグラウンドへ続く通いなれた道だった。
ぼくが初めて自動車の免許を取ったとき、母を乗せて真っ先に向かったのは多摩川巨人軍グラウンドだった。
今も東横線に乗ると、武蔵小杉を過ぎた当たりから何だか胸がドキドキし、左側の窓から見えるグラウンドの様子をジロジロと見つめてしまう自分がいる。
どんなにゆっくり歩いてもあっという間に着いてしまったあの道のりが、こんなに遠くなだらかだったのかと気づかされ、毎回母が送り迎えをしてくれた道のりがこんなに長く危険だったのかと驚かされた。
物事は、近くで見て、遠くで見て、それでやっとひとつの立派な物になる。
チームを卒団したらそれで終わりではなく、自分にとってのチームを完成させるために遠くからずっと見守っていてほしい。
OBからの声援がチームの力になり、チームの力はOBを目標にチームを上へと導く。
それがチームであり、歴史であるとぼくは思う。
10期のみなさん、ご卒団おめでとうございます!
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